NODA・MAP『贋作・罪と罰』

2006/01/11-19:00開演 シアターコクーン

去年に引き続き、シアターコクーンは年越しでNODA・MAP。元になったであろうドストエフスキーの『罪と罰』は読んでません。なのでその関係についてはまったくわからず。でも一つのストーリーとして充分惹きつけられた。

時代は幕末。主人公の三条英は、女ながらに男子学生と共に国を憂える女学生。彼女は、自分たちの信念のために資金を必要としていて、金貸しの老婆を殺害し、その金を奪う計画を実行した。目撃者を避けて現場を去った英だが、たまたま別件で出頭を命ぜられた警察でこの事件の経過を聞き、動揺する。なんとか平静を保とうとする英だが、母親と妹の突然の訪問、妹の身売りのような婚約、十数年前に亡くなったと思っていた父との再会、そして同志の一人、才谷梅太郎の怪しげな言動など、彼女の信念を問うがごとき出来事に巻き込まれていく。




ストーリーはうまくまとめられない・・・書きながら悩んじゃった。
問いかけは「信念の為に人を殺すことは許されるのか」ということ。そこに、様々な人々が絡んでくる。個々の出来事は一つ一つ個別だけれど、それがまとまった時、大きなうねりになる。この絡み合ったストーリー展開が、独特の舞台空間、演出でより強調されていた。
劇中、才谷が二度発する「みなさんは声高に議論しているが、果たしてそれを実行する人はいるのか」という問いかけ、問われた学生たちは曖昧ににごしてしまい、実際に実行するものはいない。そしてそれを実行してしまうことができたのは英だけだった。しかし才谷(実は坂本竜馬)は血を流さずに解決するために奔走していた。英は世の中を変えようという信念の為に血を流し、才谷は血を流さないことを信念に世の中を変えようとした。そんな二人の最後のやり取りは、才谷が神父のようにさえ感じられる台詞に、英が浄化されていくような印象を感じた。
そして、才谷の言うように自らが汚した大地に許しを請い、警察に出頭し、時代が、才谷が、彼女を救い出してくれるのを待つ英。モノローグで才谷への手紙を読む彼女からは、かつてのとげとげしさはなくなっていて、とても素直な言葉を発していた。その彼女と時空を越えたところで、才谷は非業の死を遂げる。その見せ方はほんとうに残酷で、でもとても美しい見せ方だったと思う。この後、恩赦で自由を得たであろう英は、才谷の死を知ってどれほどの衝撃を受けるのだろう?それでも、自分が奪ってしまった命の分まで、自分を許しの道に導いてくれた才谷の分まで、また彼の信念を受け継いで生きていったんじゃないだろうか。

とても皮肉なのは、その才谷の命を奪ったのが英の父だったこと。彼は彼で、時代に、人々に翻弄されたんだけれど、一つの信念を破ってしまった、自分の命を守るために・・・。英と再会した時、「人を殺したことだけは無い」と言っていた。そして智からも「二度とそんな仕事はしないで」と懇願され、自らにそれを課したはずなのに。しかし、彼は妻や娘たちの為にどうにかして武士としてやり直したいその思いを利用され、知らず知らずに倒幕に加担させられ、さらには幕府によって横死したことにされてしまう。「生きていることを伝えたい」という思いだけのために、名乗り出たが、倒幕派の仲間たちからは「お前の死こそが運動の原動力だ」とされ、死を迫られる。そして倒幕派の学生たちは、力ではなく交渉で幕府を倒そうとする才谷(竜馬)の存在をも消そうとするが、以前才谷に指摘されたように、それを実行する人間はいない。そこで彼らは英の父に、選ばせるのだ。「自分の命か、竜馬の命か」。・・・英の父にとっては究極の選択。「人を殺さない」を信念にすれば、自分が殺される。しかし自分は妻や娘たちのために生きていたいし、名を挙げたい、死んでしまっては元も子もないのだから、彼にすれば究極の選択。そして選んだのは、自分の命を守る道だった。しかし、彼もまたその後の人生をどう生きることになったのか。人を殺してしまった以上、智との約束を破ったわけで、顔を合わせられるはずもなく。また、相手は英にとって大事なひとだったわけで(彼がそのことを知っていたかどうかはわからないけれど)これも顔を合わせられるわけが無い。

英の家族はみなそれぞれに隠し持った想いがあった。母は血筋・権力・金の力に大きな幻想を抱き、ひたすらにそれらを追い求める。英の父が見つかり、幕府に取り立てられた(実際には騙されていただけだが)と知った後の喜びようや、三条家という傍流の公家の話から、それが推察された。そして母は優秀な英に期待もかけていた。彼女は、幕末の動乱の中で、その変化についていけず、かつての栄光に縋るしかなかった人間なのかな。そして妹の智。金持ちの溜水に嫁げば、家族が幸せになる、と信じて、それが自分の役目だという彼女。でも、後半、溜水とのやりとりでは、確固とした自我を強調し、姉への絶対的な信頼を曲げることはしなかった。自分の父親には「人を殺さない」ことを約束させ、溜水から姉が人殺しと聞かされてもそれを受け入れない彼女自身が、溜水に拳銃を向け、1発発射するまでも抵抗したところに、芯の強さを感じるとともに、それでも彼女は溜水を殺すことはできなかった、彼女には一線を超えることができなかった、そこが英との違いなのかと思う。

溜水の信念や目的がちょっと消化し切れなかったのが残念。彼は智に何を求めていたんだろう?わかったような、わからないような・・・もう一度、結末を知った上でそれまでの過程を観ればわかるのに、と思う。
全体的に、やはり野田作品は一度じゃ理解しきれないんだよな・・・もう一度観たいし、戯曲でも読んでみたい。
今回はあまり言葉遊び的な部分は感じなかったけど、色々潜んでいそうな気もするし。

長くなったので、演出については別記事にします。
ところで、一つだけ気になったこと。ラスト、英のモノローグに「江戸が明治になるそうですね」というのがある。これがいやに引っかかって・・・。これって、「江戸時代」が「明治時代」に変わる、ということを指してるんだろうけど、あの時代に現に存在していた人々が使う言葉じゃないんじゃないかなあ、「江戸時代」て言葉は。あの当時、「江戸」は地名であって、時代の名称じゃないと思う。もし「江戸幕府」が「明治政府」に変わることを指しているとしても、やっぱりおかしい。当時は単なる「幕府」か「徳川様」とかだっただろうし。「明治」は単なる元号で、当時の「新政府」にあとからその元号を付けたんだろうから。
だから、あの台詞だけがやけに耳に聞こえが悪くて、収まりが悪く感じた。「江戸が東京」か、「慶応(当時の元号)が明治」だったらすんなり入って来たのに・・・。
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by yopiko0412 | 2006-01-17 00:54 | 演劇  

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