「歴史小説」の中の「史実」

月は東にさんでこの記事を読んで、書きたくなりました。

舞台の『吉原御免状』の感想をかなり読んだんですが、気になったのが、「原作は知らないけど、あの設定(吉原が傀儡子一族の城だった、傀儡子の女をかくまうためだった、徳川家康も道々の輩だったこと、など)は事実(もしくは史実)なのかなあ?」という疑問を発してる方が少なからずいたこと。

そういう感想を読むと、「原作には歴史考証の詳しいことも書いてあるけど、舞台ではそこまで表現できないから、原作を読んで欲しい」と思ったのですが。これは、「歴史小説」を原作とした舞台なのだから。でも、まず根本的なこととして、歴史小説そのものが「事実(史実)」を描いていると捉えられているとしたら、大きな間違いだなあとこちらの記事の「様々な歴史のif」という言葉を見て思ったんです。

原作を読んだ方ならわかると思いますが、隆さんは様々な文献を引用して、そこから「こういう風にも仮定できる」として、この話を紡ぎ出しています。そもそも歴史というものは、今残っている限られた書物や遺跡から得た情報をつなぎ合わせたものであり、点と点の事実に、それに合うストーリーが載せられているのではないでしょうか。

そういえば、三谷幸喜さんの幕末物の戯曲では度々「坂本竜馬と近藤勇は実は江戸で出会っていた」という設定がされています。(全作品を調べたわけではありませんが・・・)そして、どこかで読んだか見たかしたのですが、三谷さんとしては、「ある時期、この二人が同時に江戸にいたことが確認できる。それならば、当時時代を憂う若者同士、出会っていてもおかしくない」という考えがあるそうです。

歴史は、点と点の事実(と思われる資料)を元に、語られています。その点と点の間を、違った視点で、様々な要素を組み合わせて、想像力を働かせると、人によってまったく別のストーリーが生まれる、それが「歴史小説」。ただ「事実」を羅列するだけなら、歴史教科書を読むのと同じ。作家の方々の歴史考証と豊かな想像力、そして巧みな文章によって、読者である私達もその想像力を働かせることができるんじゃないかなあ。

舞台でも、小説でも、映画でも、エンターテイメントには「想像力」が必要であり、そういう刺激から逆に想像力を育てているんだな、なんてマジメに考えてみたりしました。
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by yopiko0412 | 2005-10-21 12:50 | 雑記  

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